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インタビュー「私と仕事」

第13回 『後藤健一司法書士事務所』司法書士 後藤健一さん 2009・11

 私と盲導犬のネルーダは、上田市内にある「後藤健一司法書士事務所」を訪ねました。迎えてくださったのは、司法書士で、車椅子を使う後藤健一さんと奥様です。
 後藤さんは、昭和24年に、東御市禰津に生まれました。昭和42年、上田高校在学中に、スポーツ事故によって、頚椎損傷となり、昭和46年に「国立伊東重度障害者センター」に入所。司法書士試験に合格して、昭和50年、上田市に司法書士事務所を開きました。今年は、還暦を迎えたそうです。
 奥様は、私の手をとって椅子に案内してくださり、手作りのサンドイッチと、おいしいコーヒーをご馳走してくださいました。後藤さんは、「腰の低い先生」という評判通りの真面目で謙虚なお人柄が伝わってくる方です。バリアフリーの明るい事務所は、居心地がよく、後藤さんの静かな声に、時を忘れて聞き入りました。

里枝子
「後藤さんが受傷されたのは高校生の頃だったそうですね。」
後藤
「そうです。昭和39年に東京オリンピックがあったんですけれど、そのとき僕たちは中学3年生でした。当時、日本の体操は強かったんですよ。それで、僕は高校1年、2年と体操班で体操をやって、高校3年の6月17日に、鉄棒から落っこちました。首から落ちまして、病名は頚椎損傷です。」
里枝子
「突然の事故だったのですね。では、高校を中退して、入院されたのですか?」
後藤
「そうです。治療といっても、毎日点滴を打って寝ているだけでした。ずっと意識はありましたが、高い熱が続いて、9月の敬老の日に、やっと平熱に戻りました。それから12月ぐらいまでは病院にいて。後は、自宅で幽閉のようなかたちで、ベッドで天井を見て、4年間過ごしました。」
里枝子
「長くてつらい日々だったでしょうね・・・」
後藤
「その間が、精神的にも一番ハードでした。やることがなかったから、新聞を、毎日、読む所がなくなるくらい読むだけでした。親は百姓で働きながら、ずいぶん一生懸命やってくれたものですから、苦労がわかる分だけ、迷惑をかけているなという気持ちが強くてね。どこかへ逃避したい気持ちでした。」
里枝子
「それで、伊東のリハビリテーションセンターに入所する決意をなさったのですか?」
後藤
「そうです。たまたま障害者手帳の最後のページに『国立伊東重度障害者センター』のことがあって、入所できると書いてあったんです。それで手紙を書きました。でも、その頃、僕には大きな褥瘡があったので、傷がなくなったら来てくださいと言われました。翌年、もう一度申請して、22才の5月に伊東へ行きました。」
里枝子
「そこでリハビリテーションが始まったわけですね。」
後藤
「伊東へ行って、やっと自分で動けるようになりました。やっぱりなりますよね。車椅子の人たちが、約100名いて、あの頃は、若い人も、ずいぶんいたんです。まずは、トイレが自分でできるようになることと、車椅子からベッドへの移動ができること。食堂まで行って、ご飯を食べることなどの日常の動作ができるようになるのに、1年ぐらいかかりました。その後、職能訓練が始まりましたが、頸損は手が効かないから、細かいことはできないんですよ。頸損の人たちは、ほとんど和文タイプをやってましたね。僕も和文タイプをやりました。それで、4年間で、寝食をともにした友人が何人かできました。それが僕の大学時代だったなあとおもいます。」
里枝子
「どんなきっかけで司法書士をめざすようになったのですか?」
後藤
「たまたま厚生省の方から、指導課長として、黒沢貞夫先生という方が、赴任してきましてね。その方は、司法試験を途中まで受けて、断念した方でした。その黒沢先生に、僕が相談したことがきっかけです。その頃、僕と結婚してもいいという若い女性がいたんです。結婚するのはいいんだけれど、結婚しても自分の力では生きていけないものだから、あわてて相談に行きました。すると黒沢先生が、司法書士という職業もあると教えてくださったんです。それに、司法書士の受験資格は中学卒業だけでよかったので、これなら大丈夫じゃないかとおもいました。」
里枝子
「得がたい出会いがあったのですね。だけど、司法書士試験といえば難関でしょう?よく挑戦する気持ちになりましたね。」
後藤
「当時はそういう認識もなかったし、他にやれることがなかったですから。黒沢先生は『じゃあ、民法から勉強するか』と言って、5時まで仕事をなさったその後、ボランティアで教えてくれました。先生が持っている六法全書などをお借りして、僕と、横山さんという方と2人で始めたんですよ。最初は場所もなくて、ミシンの縁に本を置いて、全くわからないのを、ひとつひとつ読み合わせをしながら始めたんです。やってるうちに、僕も入れてくれ、私も入れてくださいという人がいて、最終的には4、5人になりました。」
里枝子
「そういうかたちで、何年勉強して、司法書士試験に合格したのですか?」
後藤
「僕は昭和48年の2月に勉強を始めて、次の年の7月に受かりましたから、黒沢先生のもとでの勉強は1年4ヶ月ぐらいです。その頃はマークシートの試験だったから、鉛筆を持てる工夫をしましてね。『名前だけは忘れないで書いてこいよ』なんて言われて。まあ、みんな、受かるとは思っていなかったとおもいます。(笑)」
里枝子
「わあ、快挙ですね!ご家族や、仲間の方々も、どんなに喜ばれたことでしょう。それでも開業当初は、ご苦労も多かったでしょうか?」
後藤
「昭和50年の5月に上田市へ来て、事務所を開きましたが、3年間ぐらい、ほとんど仕事はなかったです。」
里枝子
「地域の人々との信頼関係をつくるのに、年月が必要だったということですか?」
後藤
「そういうことです。結局、個人のお客様から仕事をいただくわけですから。最初は親戚の方の仕事をさせてもらったり、新聞記事を見たからと来てくださる方があるだけでした。それに当時は、私自身が、施設という温室から、普通の経済社会の中に入ってきたわけで、訓練期間を経ていないわけです。僕たちの頃は、まだ、試験に受かったら、そのまま現場に放り出される感じでしたしね。だから、最初は、わからないことばかりで、先輩の方々に、お聞きしながら、ひとつひとつ覚えていきました。」
里枝子
「誰でも、人生の重要な場面で依頼する仕事でしょうから、その仕事を任せてもらえるようになるのは大変なことなのですね。現在は、どのような仕事の依頼が多いですか?」
後藤
「僕のしている仕事は、登記手続きが主なんです。たとえば、個人の方が土地を買ったときに、売買契約を結ぶと、所有権は、ただちに買った人に移ります。でも、それは目に見えないものですから、その目に見えないものに、着物を着せるような形で、登記をするわけです。そうすると、透明人間であった所有権が、誰が見ても、この人のものだと、わかるようになるのが登記です。そんなふうに、台帳に記載するための手続きを、個人に代わって代理を受けてするのが、僕の主な仕事です。」
里枝子
「仕事の上で、特に心がけているのは、どんなことでしょうか?」
後藤
「まず、一番は、お客様のおもっていることをいかに正確に聞き取るかということです。それから、本人確認は重要ですね。個人の情報を教えてもらわなければ、本人確認できないので、それをいかに厳重に管理するかということに注意しています。それから、法務局は提出された書面だけで調査するものですから、逆に、偽造された書面等でも、整合性が出てくる場合があります。そうすると、本人の知らないうちに、資産を違う人の名義に変えてしまうという恐れもあるわけです。特に不動産などは、動く資産が大きいですから、とても神経をつかいます。」
里枝子
「責任の重い仕事ですね。手足の不自由さは、どのように補っていらっしゃるのでしょうか?」
後藤
「幸いなことに、司法書士の仕事は、主に書面を作製することです。指が駄目なことについては、伊東で和文タイプを習っていたことが役立ちました。その後、ワープロを使い、今はパソコンを活用しています。従前は出頭主義といって、書面を持って、必ず本人が法務局へ行かなければ駄目だったんですが、この頃、法律が変りましてね。パソコンのオンラインで、専用の回線を使って、PDFにした書面を法務局へ送れるようになりました。その意味では、僕は、時代的によかったとおもっています。」
里枝子
「依頼者と信頼関係を築くために、努力していることはありますか?」
後藤
「お客様が、事務所に入ろうとして僕を見たときに、『車椅子なのに大丈夫かな』っておもわれるんじゃないかと、内心どきどきしながら、最初はお話を伺うことがあります。でも、段々お話しているうちに、相手も、僕が車椅子だってことを忘れるみたいだし、自分も忘れます。そして、結果が、適正なものを出せれば、それが信用につながるとおもいますね。」
里枝子
「仕事でもって、きちんと答えを出すということですね。」
後藤
「それしかないんじゃないですかね。最初は、簡単なことしか頼まれないかもしれないけれど、それを愚直にやっていくことだとおもいます。お客様が、段々増えてくるのは、『あの先生にやってもらったら、よかったから』『紹介されたから』という口コミがほとんどです。あとは、もう30年近くもやっていますから、お客様が亡くなられて、今度はそのお子さんが、問い合わせてきてくださるという仕事もありますね。法人関係の仕事もあります。」
里枝子
「お話を伺って、能力のある障害者の方たちに、司法書士のような仕事に就けるチャンスが、もっとあればいいとおもったのですが、それには何が必要でしょうか?」
後藤
「本人の努力も必要だとおもいますが、周りで、そういうことをレクチャーしてくれる人がいるかどうかは重要だとおもいます。僕も、黒沢先生がいなければ、こういう仕事があることは、ぜんぜん知りませんでした。あと、ターニングポイントの時点で、僕は、切羽詰るものがあったんですよね。『恒産なければ恒心なし』という言葉がありますが、ある程度の収入がないと芯からは自立できません。障害にかかる費用は、本人に現金で支給し、ヘルパーさんなどには本人が支払いをして、対等な立場で援助を受けられる制度になるといいとおもいます。」